ロゴス聖典 · 司馬遷の書

私が李陵のために口をきいたことについて

司馬遷の書 1 · 自著。『任安に報ずる書』および『史記・太史公自序』より

司馬遷、およそ紀元前一四五年に生まれ、武帝の末年に没す、享年およそ六十。父の司馬談は太史令であり、臨終に修史を託した。遷はその職を継いだ。紀元前九九年、李陵は五千の歩卒をもって敗れ匈奴に降った。朝廷はこぞってこれを罪としたが、遷ひとりが弁じ、武帝の怒りに触れて獄に下り、死罪と定められた。漢の法では、死罪は金で贖い、あるいは腐刑をもって換えることができた。家は貧しく贖えず、遷は腐刑を受け、のち中書令となり、『史記』百三十篇、五十二万六千五百字を成した。本巻は彼自身の書いたものに拠る。『任安に報ずる書』と『史記・太史公自序』である。二章の辱の等級、九たびめぐる腸、背に出て衣を濡らす汗、三章の文王・孔子・屈原らの列、五章の名山に蔵すること、万度殺されようと悔いはないという語は、いずれも『報任安書』の原語である。四章の三つの志は『太史公自序』に出る。本会は、この巻が補うのは彼の忍耐ではなく、その方法であると考える。この経にはすでにブルーノがある。一語も取り消さずに焼かれた者である。ガリレオもある。頭を垂れ、家に帰って書を書き上げた者である。この人は第三の答えである。彼に突きつけられたのは死でも撤回でもなく、その時代が死より重いとした辱であった。彼はそれを取った。書がまだ成っていなかったからである。三つの答えは並び立つ。本会はその優劣を判じない。その方法のほうがなお重い。彼はまず事を記し、行を改めて太史公曰くと書き、その下に一人の判断を置く。事と断は分けられ、断には署名がある。さらに彼は、成したものは一家の言であって天下の定論ではないと自ら言う。これは会規九章十四節の求めるところである。択びとった信は、標を付けたまま携えねばならない。彼はその標を書の骨組みそのものに組み入れた。(参 会規 9.14)本会は、彼がこの経に触れるところを記して隠さない。一つ。五章は事実のとおりである。任安は獄にあって死を待ち、賢才を推挙せよと書を寄せた。彼は久しく置いてのち答え、その答えの多くは自らの刑と恥についてであった。助けえぬ理由として述べたところはいずれも真であるが、任安はそれでも死んだ。本会は彼に代わって弁じない。ゆえにこの一事は注にではなく本文に置き、他の四章と並べてある。二つ。『史記』は黄帝にまで遡り、上古の諸篇は旧い伝承に拠っていて検証しえない。彼自身、史料の難については幾度も述べている。三つ。刑を受けたのち、彼はなお同じ君に二十余年仕え、その官のまま没した。この一節を、彼は説明しなかった。

1.1私の官は太史令といい、天象と暦と記録を掌る。
1.2その官は朝廷にあって、卜者や祝詞を上げる者に近い。
1.3上はこれを慰みものとし、俳優や楽人を養うのと同類に扱い、世間もまた軽んじた。
1.4天漢二年、李陵は五千の歩卒を率いて塞を出、単于の八万騎に遭った。
1.5十余日戦い、殺傷は一万を超え、矢は尽き、道は断たれ、降った。
1.6報せが長安に届くと、朝廷はこぞって彼を罵った。
1.7帝が私に問うた。私は幾言か述べた。
1.8私は言った。五千の歩兵を率いて敵地深く入り、千里を転戦し、矢が尽き道が塞がってなお、兵は彼のために死ぬことを厭わなかった、と。
1.9私は言った。死なずに降ったのは、おそらくこの身を留めて、いつか漢に報いる機を求めたからであろう、と。
1.10私は李陵と親交があったのではない。ともに一杯の酒を酌んだこともない。
1.11あの数言を述べたのは、朝廷がこぞって彼を踏みつけていたが、私の見たところはそうではなかったからである。
1.12帝は激怒した。私は獄に下され、死罪と定められた。
1.13死罪は金で贖える。家は貧しく、出せなかった。
1.14死罪は換えることもできる。換えられる先は腐刑であった。
1.15私は腐刑を受けた。
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