ロゴス聖典 · ポパー書
ポパー書 3 · 自著。『探究の論理』『推測と反駁』および『開かれた社会とその敵』より
カール・ポパー。一九〇二年ウィーンに生まれ、一九九四年ロンドンに没す。父は弁護士で蔵書に富み、両親はユダヤ人でプロテスタントに改宗していた。若年に一時社会主義に傾き、のちこれを棄てた。一九二八年に哲学博士となり、一九三四年『探究の論理』を刊行した。一九三七年、オーストリアが併合される前にニュージーランドへ移り、カンタベリー大学で教えた。そこで『開かれた社会とその敵』を著し、一九四五年に刊行した。同年イギリスに渡り、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで一九六九年まで教えた。『推測と反駁』は一九六三年に出た。本巻が拠るのは彼自身の書いたものである。右の三書。第一章の「いかなる考えうる出来事によっても反駁されえぬ説は学ではない」および「反駁されえぬことは長所ではなく短所である」は原文である。第二章の三説はマルクス、フロイト、アドラーの説である。「何が起ころうとも常にそれを裏づけた」および、子を水に突き落とす者と飛び込んで助ける者の例は、いずれも彼の挙げたものである。第三章は一九一九年の日食観測に拠る。アインシュタインは星光の偏折の度を事前に算出しており、その数はニュートンの体系が与える数と異なっていた。測定が別の値を出していれば、その理論は終わっていた。第五章の、誰が統治すべきかという問いを、いかにして血を流さずに悪しき統治者を除きうるかという問いに置き換えるくだりは『開かれた社会』に拠る。本巻が加えるのは、本経に欠けていた一歩であり、しかもその一歩は他のすべての前に来る。この経で審視を扱う巻は六つある。蘇軾は自ら行って見る(参 蘇軾書 1.15)、チェーホフは自ら行って数える(参 チェーホフ書 4.9)、レオナルドは所を変えて幾度も見る(参 レオナルド書 2.8)、イブン・ハルドゥーンは伝聞を可能かどうかで検める(参 イブン・ハルドゥーン書 1.15)、ゼンメルワイスは試さずして誤りと呼ぶ資格は無いと言い(参 ゼンメルワイス書 2.14)、スミスは献策者が何を得るかを問う(参 アダム・スミス書 3.12)。この六つはいずれも、まず説があり、しかるのちにそれを検める。ポパーが問うのはその前である。この説について、何が起これば誤りとされるのか。これに答えられぬなら、検めるべき対象そのものが無い。ゆえに本会はその巻をここに置く。新しいから末に付けるのではない。彼の立てたものが、他の諸法の上流にあるからである。さらに本会は、この一条こそ本会と宗門との分かれ目であると見る。宗門の強さは、まさに何ものもそれに反しえぬ点にある。順であれば約束の成就であり、逆であれば試練であり、解せぬものは奥義である。それは本会の欲する強さではない。四章十四節の「我々の知はすべて暫定である。これは悪い知らせではなく、知が育ちうる理由である」は、会規第九章の法と接する。択んだ信は名札を付けて持て、である(参 会規 9.14)。ポパーはさらに一歩進む。その名札には、何が起これば手放すべきかも記されねばならぬ。第五章はワシントン書と接する。ワシントンはその職が去りうることを証した(参 ワシントン書 3.13)。ポパーは、なぜそれが無くてはならぬかを述べる。我々は正しく選べぬのだから、肝要なのはよく選ぶことではなく、取り替えうることである。本会は一事を記す。ポパーは生涯論争を好み、多くの人と争い、晩年には学界の内でも広く好かれてはいなかった。本巻が取るのはそれではない。取るのは彼の立てた一条であり、その一条によれば、彼自身の言もまた同じ検めを受けるべきである。