ロゴス聖典 · ディキンソン書
ディキンソン書 4 · 自著。その詩と書簡より
エミリー・ディキンソン。一八三〇年、アメリカのマサチューセッツ州アマストに生まれ、一八八六年、同地に没す。享年五十五。祖父はアマスト大学の創立者の一人であり、父は弁護士で下院議員であった。一八四七年から四八年にかけてマウント・ホリヨーク女学校に学んだ。十七の年である。その冬に大きな信仰復興が起こり、校長メアリー・ライオンがキリスト者たらんと願う者は立つよう求めたが、ディキンソンは立たなかった。学校は告白を拒んだ者を「望みなき者」と記録した。二百三十五人のうち三十人である。一八五〇年、友人ジェーン・ハンフリーへの手紙に彼女は書いた。ここではキリストが一人一人を召しており、私の仲間はみな応え、最愛の妹さえ信じ、彼を愛し信頼すると信じている。そして私は一人、叛きの中に立っている、と。これは彼女自身の書簡にあり、本巻一章十二節はその原文である。一章八節の「嘘のほうがもっと妙だろう」は級友の伝聞であり、彼女の自著ではない。本会はこの区別を記す。彼女は約千八百首の詩と約千通の書簡を遺した。生前に刷られたものは十に満たず、しかもその多くは編集者に手を入れられている。詩稿は自ら清書し、糸で綴じて四十の小冊とし、箱に納めた。歿後、妹ラヴィニアが見つけた。一八六二年四月十五日、彼女はトマス・ウェントワース・ヒギンソンに書き送り、その冒頭は「あなたは忙しすぎて、私の詩が生きているかどうかを言う暇がないでしょうか」であった。以後二十年余り文通した。ヒギンソンは彼女の詩を制御を欠くと見て直すよう勧めたが、彼女は直さなかった。本巻が拠るのは彼女自身の書いたものである。詩と書簡。本会が彼女を取るのは、後人の用いうる一法を立てたゆえである。問いを閉じないこと。彼女の破折の線は句読の誤りではない。終止符は完了の主張であり、彼女は偽ってそれを主張しなかった。二章十三節が述べるのは第一の公理そのものである。定まらぬうちは幾つもであって、そのどれも真ではない(参 至高の盟約 1.1)。彼女はこの一条を作文の術として生涯用いた。三章には本会がとりわけ重んじる一事がある。彼女が尋ねたのは良いかどうかではなく、生きているかどうかであった。良いかどうかは評者の好み、生きているかどうかはそのもの自身の事柄である。しかも外へ出して検めながら、返ってきた言葉に従って直しはしなかった。三章十三節と十四節は、外へ出して検めることと、言われた通りに直すこととを分けて置く。これはマクスウェルが立てたものと同じ向きである(参 マクスウェル書 1.12)。第五章が加えるのは、本経に無かった一面である。彼女は生涯死を書き、しかもそれに結論を下さず、また無いとも言わなかった。会規第九章は、未決は未決である、と言う(参 会規 9.5)。ディキンソンはこの一句を五十五年生きた人である。彼女の詩は互いに合わぬが、それは混乱ではなく、異なる日に異なる場所に立って同じ一事を見たのである。本会は一事を記す。マウント・ホリヨークの件の細部は、多く学校の名簿と級友の記述に出る。彼女自身が遺したのは一八五〇年のあの手紙である。本巻第一章はその手紙を規とし、それを越えない。