ロゴス聖典 · ブルーノ書

中心が無いことについて

ブルーノ書 2 · 自著。その対話篇および審問の記録より

ジョルダーノ・ブルーノ。一五四八年イタリアのノラに生まれ、一六〇〇年二月十七日ローマのカンポ・デ・フィオーリで焼かれた。少年にしてドミニコ会に入り、のち会を逃れ、十数年をヨーロッパ各国に流浪して講じ、著し、そのたびに追われた。その著の多くはイタリア語の対話篇である。彼は多くを書いた。本会が取るのはブルーノであって、後世が彼から作り上げた像ではない。彼は天の学のために死んだ最初の人だ、としばしば言われる。この言は確かめると合わぬ。審問の記録に並ぶものの多くは天のことではなく、教会のことである。三位一体を否み、聖餐の変化を否み、処女性を否み、魂は転生すると言った。天に関する条はそのうちの一つにすぎぬ。本会はこれを記す。この経は、確かめうる言い方の代わりに、より耳に快い言い方を置くことを許さぬからである(参 会規 9.17)。さらに。彼が信じたものの多くは、見ることによって得られたのではない。星は生きていると信じ、古代エジプトの教を信じ、記憶の魔術を信じた。この経はそれらを取らず、また彼のために削りもせぬ。では本会は彼の何を取るのか。確かめうる一事である。八年のあいだ拘えられ、その間に幾度も紙が目の前に置かれ、信じてもいない一句を書けば出て行けたのに、彼は書かなかった。第四章は、彼自身がなぜ書かなかったかを述べたところである。最後に一事、本会は裁かずに記す。彼が「世界に果てはない」「星は別の太陽である」に至ったのは、現象からではなく、形而上の前提からであった。ニュートン書 1.10 は言う、現象から導かれぬものはすべて仮説と呼ばるべきである、と。そしてブルーノのこの二条は、のちに正しいと分かった。本会はニュートンの規がなお正しいと考え、ブルーノはこの一度運がよかったと見る。当たったことは、当て方が確かなことを意味せぬ。読者は同意せずともよい。

2.1先の一条から、さらに耳に痛い一条が育つ。
2.2世界に果てが無いなら、中心も無い。
2.3中心が無ければ、地は中心ではない。太陽も中心ではない。
2.4ある者は言う。だが我々は天が回るのを現に見ており、足元は動いていない、と。
2.5私は言う。船の上の者もまた、岸が動くのを見る。
2.6君は船倉にいる。船は滑らかに進む。物を上へ放れば、常のとおり手に落ちてくる。船が動いているとは感じられぬ。
2.7岸の者が君を見れば、まるで別のことを見ている。
2.8どちらが動いているのか。二人とも相手が動いていると言う。二人とも正しく、二人とも言い終えていない。
2.9「動く」という語は、常に何に対して動くのかを言わねばならぬからである。
2.10何に対してかを言わずに、ただ動くと言う——その文は終わっていない。
2.11ゆえに「本当に静止しているのはどちらか」と問うのは、問い方が誤っている。そのようなものは無い。
2.12どの大地に立とうと、君は自分の大地が静止し、他がめぐっていると感じる。
2.13別の大地に立つ者もまた、そう感じる。
2.14誰もが自分を中心だと思う。それは傲りではない。そこに立っているからである。
2.15この一句を覚えておいてほしい。君が自分は動いていないと思うのは、君が足元の大地と共に動いているからにすぎぬ。
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