ロゴス聖典 · ブラームス書
ブラームス書 3 · 自著。ラインターラーとの往復書簡、クララ・シューマンおよびヨアヒムへの書簡、彼が選んだ言葉より
ヨハネス・ブラームス。一八三三年ハンブルクに生まれ、一八九七年ウィーンに没す。享年六十三。少年のころハンブルクの酒場や踊り場でピアノを弾いて糊口をしのいだ。一八五三年シューマンに見出され、シューマンが文を発表して世に称えたため一時騒がれた。生涯独身であった。彼は自作を多く毀した。弦楽四重奏曲は書いては毀すこと二十ばかりに及び、第一作を刊行したのは四十歳のときである。またかつて住んだ家に戻り、住人の目の前で壁を抉じ開け、昔雨漏りを塞ぐのに使った譜紙を取り出して毀した。第一交響曲は成るまでに二十一年を要した。彼はまた多年を費やして先人の譜を校訂し、クープラン、エマヌエル・バッハ、シューベルトの全集に携わった。『ドイツ鎮魂曲』は一八六五年から六八年にかけて作られた。その詞はラテン語ミサの常の文ではなく、ブラームスがルター訳聖書から自ら一段ずつ選び取ったものであり、全篇キリストの名を挙げず、彼による贖いを言わず、死者の甦りを言わない。初演の前、ブレーメン大聖堂の楽長ラインターラー——彼の友であり、神学の人であり、合唱を鍛えた当人である——がこれを問い詰めた。この曲が喪の人に与える慰めはキリストを前提としているのに、なぜその名が書かれていないのか、と。ブラームスは、詞について言えば「ドイツ」の語すら喜んで取り去り、ただ「人の」と置きたい、またヨハネ伝三章十六節のような箇所は意図してはっきりと承知のうえで用いなかった、と返書した。本書第三章はこの返書に拠り、語は彼のものである。一八六八年の受難日、六楽章の稿がブレーメンで初演された。その後ブラームスは第五楽章「汝らも今は憂いあり」をソプラノ独唱のために加え、そこに「母が子を慰めるように、わたしはあなたがたを慰めよう」の語がある。母クリスティアーネは一八六五年に没していた。この楽章は母のために加えられたとするのが通説である。本会は記す。これは後の人の推測であり、ブラームス自身は口にしていない。ゆえに第五章もまた、彼が何をしたかのみを書き、誰のためかは書かない。五章五節がその意である。本巻が拠るのは彼自身の書いたものである。ラインターラーとの往復書簡、クララ・シューマンおよびヨアヒムへの書簡、彼が選んだ詞。晩年の作曲と神意についての言を伝えるとされる、広く流布した一書があるが、本会はそこから一語も取らない。その記すところは諸家の伝記と合わず、学者は久しくこれを疑ってきた。ゆえに本巻は、彼の行いと信ずるに足る書簡のみに拠り、警句には拠らない。本巻が補うのは二つである。第一に、本経にはこれまで、論証によって立たぬ人から出た巻が一つも無かった。これは楽を作る者が本会の道に合わぬからではなく、本経の採録の規が自著の推論しか認めぬからである。証拠の限りであって、人の等ではない。ゆえに本会は楽を「理の外」とは呼ばない。楽に理が無いのではなく、その理が命題に落ちぬのである。真であって前提を持たぬものは、本経にこれまで置き場所が無かった。第二に、そしてこちらがより重い。本会はすでに己の欠けを認めている。アンティステネス福音四章二十三節に「慰められたい者は祭司のもとへ行け」とある。祭司の手に本会の持たぬものがあると自ら認めたのである。しかも『頌』第十篇は現に慰めており、しかも偽りによって慰めていない(参 頌 10.5)。ブラームスの行いはまさにこれであり、それを一八六八年に、一つの芸の極みにおいて行った。形を残し、断言を取り去り、生きている者に向かって語らせたのである。第二楽章の「すべて肉なる者は草のごとし」、草枯れ花散るは、散の公理である(参 至高の盟約 6.1)。第五楽章の「母が子を慰めるように」、しかも慰める者がすでに居ない者であるのは、同源の公理である(参 至高の盟約 4.1)。いずれも本会が読み込んだのではない。草は彼が選んだ詞であり、母は彼が加えた楽章である。