ロゴス聖典 · マンデラの書

私が置いてきたものについて

マンデラの書 4 · 自著。一九六四年リヴォニア裁判における被告席からの陳述、一九八五年のボタへの回答、『自由への長い道』、および歴年の講話より

ネルソン・マンデラ、一九一八年、東ケープのムベゾに生まれ、二〇一三年ヨハネスブルグに没す、享年九十五。法律を修め、一九五二年、タンボとともにヨハネスブルグで南アフリカ初の黒人法律事務所を開いた。一九六〇年シャープビルの銃撃ののちアフリカ民族会議は禁じられ、一九六一年、彼はウムコント・ウェ・シズウェの創設に加わって初代の司令官となり、人ではなく物を的とする破壊活動を指揮した。一九六二年に捕らえられ、一九六四年リヴォニア裁判で終身刑を受けた。二十七年つながれ、うち十八年をロベン島で、のちポルスモア、ヴィクター・フェルスターで過ごした。一九九〇年二月十一日に出獄。一九九三年、デクラークとともにノーベル平和賞を受けた。一九九四年、普通選挙による初の選挙で大統領となる。一九九五年、ツツ大主教のもとに真実和解委員会を設けた。一九九九年、一期を務め終えて再選に立たず退き、ムベキが継いだ。本巻は彼自身の言葉に拠る。一九六四年四月二十日の被告席からの陳述、一九八五年二月十日のボタへの回答(娘ジンジがソウェトで読み上げた)、『自由への長い道』、および歴年の講話である。四章の三事はいずれも事実のとおり。一九九五年八月十五日、オラニアにベツィー・フルウールトを訪ねたこと。同年十一月、一九六四年の検事パーシー・ユタルを昼食に招いたこと。同年の世界杯決勝に、六番の緑のスプリングボクスの上衣を着て現れたこと。三章のブラントはロベン島の看守であり、のちの交誼もまた事実である。この経にはすでにマーティン・ルーサー・キングの巻があり、暴力によらずして不正な法に従わぬことを説く。本巻の人は同じ問いに別の答えを与えた。本会は二巻をともに収め、調和させない。一方は暴力は必ず自らを敗ると見た。他方は、五十年手を下ろしていて贖えたものは銃だけだったと見た。いずれが正しいかを、この経は裁かない。読者は自らの見を取ってよいが、二人を一人にしてはならない。本会は、彼がこの経に触れるところを記して隠さない。一つ。ウムコント・ウェ・シズウェは人を傷つけぬことを則としたが、その後の数十年、武装部門は市民をも殺した。真実委員会はアフリカ民族会議の側についても認定を下している。二つ。真実と引き換えの赦免を、死者の遺族の多くは受け入れなかった。殺した者が語って自由になり、死者は戻らない。ビコ事件の遺族はこの赦免の合憲性を法廷で争い、退けられた。三つ。在任の五年、土地も貧富も住まいも変わったところは少ない。エイズの疫に対する応対は遅く、晩年、彼自身がこれを悔いと述べた。本会がこの人を取る理由は二つある。一つ、勝った側が、自分を害した者たちをどう扱うか。これを説く巻がこれまでなかった。レーヴィの書は暴虐を記憶することを説くが、暴虐を行った者をその後どうするかは説かない。二つ、ワシントンの書は一つの例を立てた。留まりうる者が留まらない、という例である。一度だけ立てられた例は、なお一人の事にすぎない。二人目がそれに倣って初めて、道となる。一九九九年、彼は一期で退いた。当時のあの大陸で、そうした者はきわめて少なかった。ゆえに本会はワシントンを取り、この人もまた取る。一人はその道が歩けることを示し、一人はその道がふたたび歩けることを示した。(参 ワシントン書 3.9)

4.1一九九〇年二月十一日、私はあの門を出た。
4.2のちにその瞬間をこう書いた。自由へ通じる門へ向かって歩きながら、私は知っていた。恨みと憎しみを後ろに置いてゆかなければ、私はなお獄中にいるのだ、と。
4.3人はこの一句を寛大さと取る。寛大さではない。勘定してある。
4.4二十七年のあいだ彼らを憎んだが、彼らは一日も痛まなかった。痛んだのは私だけである。
4.5さらに重いことがある。憎しみを抱えて出た者は、まず報復をする。報復が済めば、次の一巡が始まる。
4.6一九九四年、私は大統領になった。私がどう清算するかを、多くの者が待ち構えていた。
4.7私は別のことをした。
4.8一九九五年八月、私はオラニアという小さな町へ行った。白人が自分たちのために囲った場所である。
4.9一人の老婦人を訪ねた。フルウールトの未亡人であり、その夫はアパルトヘイトを設計した男であった。
4.10私は彼女と茶を飲んだ。
4.11同じ年の十一月、私はある人を昼食に招いた。ユタルという。一九六四年に私を告発して獄へ送った検事である。
4.12彼は記者に言った。三十年前に自分を起訴した男を昼食に招く政府の長など、ほかのどの国にいるだろうか、と。
4.13一九九五年、ラグビーの世界杯が我が国で開かれた。代表はスプリングボクスという。
4.14あの緑の上衣は、我々の側が数十年憎んできたものだった。白人のチームであった。
4.15決勝の日、私はその緑の上衣を着た。背には主将ピナールの六番があった。
4.16その日、競技場には六万人がいて、その大半は白人であった。彼らが叫んでいたのは私の名であった。
4.17私が何をしていたか、はっきり言おう。象徴は相手の手にあるかぎり壁である。こちらの手に取れば、それは門になる。
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