ロゴス聖典 · イブン・ハルドゥーン書
イブン・ハルドゥーン書 2 · 自著。『歴史序説』および自伝より
イブン・ハルドゥーン。一三三二年チュニスに生まれ、一四〇六年カイロに没す。享年七十三。家はアンダルスから移り、代々官に仕えた。二十代で仕官し、以後チュニス、フェズ、グラナダ、ビジャーヤ、カイロで務め、七、八人の主に仕えた。主に叛く謀ありとされ、二年近く獄にあった。一三七五年から七八年、現在のアルジェリア領イブン・サラーマ城に籠もって『歴史序説』を著した。彼の世界史の第一巻である。晩年はカイロでマーリキー派の大法官を務め、幾度も罷免され、幾度も復した。妻と子らは彼のもとへ渡る船がアレクサンドリア沖で沈み、みな失われた。一四〇一年、ティムールがダマスカスを囲んだとき、彼は城壁から綱で降ろされ、征服者の陣に五週ほど滞在して語り合い、マグリブの地誌を書き与えた。また自伝を遺した。当時としては稀なことである。本巻が拠るのは彼自身の書いたものである。『歴史序説』と自伝。第一章の六十万の駁――地が容れず、行軍が繋がらず、糧が運べぬ――は『序説』における彼自身の算えである。第二章に挙げる諸弊――語る者を量って語られた事を量らぬこと、自らの側に偏ること、事の運びを知らぬがゆえに不可能を見抜けぬこと、奇を好んで遠くまで伝えること――もまた彼のものである。第三章と第四章のアサビーヤ(本巻では「人の群れを結びつけているもの」と訳す)と五世代の衰えは『序説』による。第五章は自伝による。本巻が加えるのは、本経に欠けていた一歩である。経にはすでに、自ら行って見よと言う者がいる。蘇軾(参 蘇軾書 1.15)とチェーホフ(参 チェーホフ書 4.9)である。幾つもの面から見よと言う者もいる。レオナルドである(参 レオナルド書 2.8)。しかしこの三者が扱うのは、行って見られる事柄である。四百年前についての言は、行って見ることができない。人は死に、地は変わった。イブン・ハルドゥーンが立てたのは、まさにその場合の法である。誰が伝えたかを問わず、成り立つかどうかを問え。二章九節が最も重い。偽りを覆すに疑いだけでは足りぬ、その事の属する道の理を解していなければならぬ。これはゼンメルワイス書二章十四節と並べて読むべきである。試していない説を誤りと呼ぶ資格は無い。ハルドゥーンはさらに一歩進み、その道を解していない者にもその資格は無い、と言う。本会は二事を記し、いずれも曖昧にしない。第一。イブン・ハルドゥーンはマーリキー派の法官であり、信仰の人であった。『序説』において、人事に関わるものは終始因果によって説かれる。しかし神跡と啓示については、彼自身がその方法の外に置き、人の理智と天啓とは同じ道を行かぬと明言する。本会が取るのは、彼が人事を推した部分である。彼が引いたその境界を、本会は引かない。これはニュートン、ファラデー、マクスウェルの諸巻と同例である(参 ニュートン書 4)。ただ一点異なる。かの人々の二つの部屋は二つの書に分かれているが、ハルドゥーンの二つの部屋は同じ一書の中にある。本会はそれをそのまま記し、繕わない。第二。彼は主を頻繁に替え、ティムールの陣に入り、彼のために図を書いた。五章九節は彼自身がそれを並べて置いたものである。これを敵に仕えたと言う人がある、私は争わない、私はしたことを書きとめるだけである、と。本会もまた代わって弁じない。そして五章十三節と十四節が立てるものを、本会は本巻で最も重いと見る。あれが何であるかをはっきり見る者は、たいてい外に立っているからそう見えるのであり、これは彼の能であると同時に、彼の生涯に欠けていたものである。